イエス・キリスト生誕祝賀会の講話
一九八九年十二月一七日
緒言
福音
イエス・キリストは彼の教えにより、また空の生涯によって、神の霊はあらゆる人の内に宿る、ということを示されました。イエスの教えによると、すべての悪と不幸は、人びとが自分の生命は肉体の中にあるのであって、神の精霊の中にあるのではない、と思っているからやって来るのです。そう思っているから、彼らは互いに争い、それだから大変に苦しみ、それだから死を恐れるのです。
神の霊は愛です。そして愛は、各人の魂の中に生きています。人が自分の生命は神の霊の中に、すなわち愛の中にあるということを信じるようになるとき、そこには憎しみはなく、心の苦しみも、死の恐怖もないでありましょう。
誰でもが、自分の幸せをねがっています。キリストの教えは人びとに、幸せは愛によって得られるということを示しています。私たちのすべてが、この幸せを得ることができるのです。ですから、キリストの教えは福音(イヴァンジェル)と呼ばれているのです。イヴァは幸福、アンジェリンは便り、よい便りです。
神の王国
彼は、神の王国が来る、と言われました。それを来させ、その世界にはいかなる悪もないことを見るためには、人びとは離ればなれに生きていてはなりません。すべてがたがいに愛しあい、合一していなければなりません。ですから、この天の王国を実現させるためには、私たちはまず第一に、自分の生活を変えなければなりません。そうすれば、天の王国はおのずからやって来るでしょう。神がその王国を設けて下さるのではありません。私たちが自らそれを設立しなければならず、また私たちにはそれができるのです。自分の生き方を変えようと努力するとき、それができるでありましょう。
イエスは言っておられます、「神の王国が目に見える形で現れるであろうとは思うな」と。この王国は、見ることはできません。もし誰かがあなたにそれはここにる、とかあそこにある、とか言ってもそれを新字、そのあとについて行くようなことをしてはいけません。神の王国は特定のときにあるものでも、手区底の場所にあるものでもありません。それは一切所にあるのです。それはあなたの内に、あなたの魂の中にあるのですカラ。(マタイ伝十二章七−一二)(ルカ伝一六、一七章二十−四)
イエスは言っておられます、「神の王国はこの世の王国とはまったくちがう。神の王国には、高慢な者たち、富める者たちは入らない」と。高慢な者たち、富める者たちは、いま支配しています。彼らはいま、楽しんでいます。そしていま、誰も彼もがほめたたえ、そんけいしています。しかし、彼らが高慢であり金持ちである限り、神の王国は彼らの魂の中には存在しません。彼らは神の王国には入らないでしょう。
高慢な者たちは入らないが、柔和な者たちは入ります。富める者たちは入らないが、貧しい者たちは入ります。しかし柔和な者たちや貧しい者たちは、ただ、柔和で有り、貧しければ入れるのであって、彼らが金持ちになれないから、高慢に慣れないから入れる、というのではりません。ただ、彼らは立派に金持ちになるために、罪を犯すようなことをしないからです。もしあなたが、単に金持ちになる能力がないためにまずしいなら、あなたは味のない塩のようなものです。塩気のない味は何の役にも立ちません。してられるより他ないでしょう。
人の場合にも同じこと、もしあなたが富を得るすべをしらなかったために貧しいなら、何をすることも、貧しくあんることも富むこともできないでしょう。
ですから、何よりもまず第一に神の王国に住むことが必要です。あのおうこくとSNO本質をお求めなさい。そうすれば、必要なものすべてを得るでしょう。
イエスはさらに、こうつけ加えておられます、「私があなた方に何か新しいことを教えている、と思ってはいけない。私は、前に聖者たち賢者たちが教えたことを教えているのだ。それをするためには、あなたは神のおきてに従わなければならない。教師たちがしているように、それについてただしゃべるだけではいけない。それらを実践せよ。かみのおきてを実践し、身をもって他に範を示す者だけが、神の王国に入るのだ」と。
イエスは、彼の言葉をきく者たちに、もし彼らがこの教えに従うなら何がおこるこか、ということを話しました。彼は言っておられます――
「他の人びとに対して怒りを発しなければ、自分は平和に徹した人間なのである、などとは思うな。一人の妻と暮らせ。誓うな。あなたをわるく言う者に対して自分を主張するな。要求されるものはみな与えよ。あなたの敵を愛せ。そのような態度で暮らすと自分の生活が困難になり、いまより悪くなるだろう、とは思うな。そうは思うな。あなたの生活は悪くはならず、いまよりずっと良くなるのだ。天にましますわれらの父は、我らの生活を悪くするためではなく、われらがほんとうの生活をするように、このおきてをくださったのである。この教えにしたがって生きよ。神の王国は来たり、あなたは必要なものすべてを得るだろう。
「鳥屋けものたちには、神は彼のおきてを下さった。そして彼らがそのおきてに従って生きるとき、彼らは安泰である。それだから、あなた型が神のおきてに従って生きるなら、あなた型も安泰であろう。
「私が言っていることは、私自身が言っているのではない。それは神のおきてである。それはすべての人びとの心の中に書かれていえる。あおのおきてがもし人びとに福祉をもたらさないものであったなら、神はお与えにならなかったはずだ。おきては数語で表わせば、『自分みずからを愛するように神を愛せ』というものである。このおきてに従う者は、人に対して、自分にそうしてほしいと思うようにふるまう。
「それゆえ、私のこの言葉をきいえTそれを実践する人はすべて、岩の上に自分の家を立てるような人びとである。そのような人は何ごとも――雨も嵐も洪水も恐れない。彼の家は岩の上に立っているのだから。しかし、私の言葉を聞いてそれを実践しない者は、思慮のない人間のようにふるまっているのだ。しりょのない男は自分の家を砂野上に建てる。そのような家は洪水や暴風にはたえられず、倒れてめちゃめちゃになる」
イエスが話を終られたとき、人びとはその教えに驚嘆しました。
あるとき、一人のパリサイ人がイエスのもとに来て、神の王国はわれらの内にあるというのはどういう意味かと尋ねました。イエスはそこで彼の教えを次のように説明されました、
「神の王国はわれらのうつにある、ということは、そこに入るためには私たちはもう一度生まれかわらなければならないということである」と。パリサイ人は重ねて、どうしたら人はもう一度生まれることができるのですか。もう一度母親の胎内に名言って、そして生まれることができるのですか」と。イエスは次のように説明されました。
「ふたたび生まれるということは、赤ん坊が母親から産まれるように肉体として生まれるのではない、霊として生まれるのである。霊として生まれるというのは、神の霊が人の内に生きておられるのを知ることである。すべての人びとのように母親から生まれた上でさらに、彼は神の霊から生まれるのである。肉体から生まれた者は肉体でできており、それは苦しみ、かつ死ぬ。霊から生まれた者は霊であって、それ自ら生き、死ぬことも苦しむこともあり得ない。
「神はれの霊を人の中に入れられた。彼らが苦しんだり死んだり市内洋に彼らが喜ばしい、永遠の生命を得るように。だれでもが、その生命を得ることができる。その生命が、神の王国なのである。
「それゆえ、かみのおうこくはあるときのある特定の場所にある、と思ってはいけない。仮眠おうこくには誰でもが入ることができる。もし人びとが、自分の自分の内部に神の霊をさとり、それによって生きるなら、そのとき、彼らは神の王国にはいるのだ。彼らはもはや苦しまないし、死なない。しかし、もし人びとが彼ら自身の中にある霊を悟らず、彼らの肉体のために生きるなら、彼らは苦しみ、そして死ぬであろう」と。
イエスは人びとにさまざまの戒めを与えました。第五の戒めの中で彼は言っておられます、あなた方の古いおきての中では、「自分の国の人びとを愛せよ。他の国々の人びとは憎め」と言われている。しかし私はあなた方に言う、あなた型はあらゆる人を愛さなければいけない、もし人びとがみずからをあなた方の敵であると思い、あなた方を呪い、あなた方を攻撃するようであっても、それでもあなた方は彼らを愛し、彼らの膳を施さなければならない。すべての人は唯一の父の息子たちなのである。すべてが兄弟である。あらゆる人を同じようにあいさなければならない、と。
キリストとシュリ・ラーマクリシュナ
キリストとラーマクリシュナ僧団との間には、そのはじまりから密接な関係があります。多くの聖者や宗教の師たちの中でも、シュリ・ラーマクリシュナその生涯の中で最もいちじるしく宗教の普遍性と調和の概念を説かれました。
彼はヒンドゥイズムの中のさまざまの宗派の修行を実践されただけでなく、イスラームはキリスト教の修行も行なわれました。それぞれの宗教的道程を経て、彼は神の最高の悟りに達せられました。彼はこのようにして、直接経験の権威をもって、「さまざまの宗教は同一の目標に達するさまざまの道である」という、古代のヴェーダの真理を宣べ伝えることがおできになったのです。
シュリ・ラーマクリシュナが積極的にキリスト教に興味を持たれたのは八七四年のころでした。ある信者がしじゅうドッキネッショルの寺院に師を訪れ、ときどき聖書を呼んでは、ベンガル語でせつめいをしました。
ある日、シュリ・ラーマクリシュナはドッキネッショルの近くにあるもう一人の信者の家の客間にすわっておられました。ここでカレハ、マドンナと聖なる幼子の美しい絵をほらんになりました。彼はマリアと幼子の深い瞑想に入られました。彼は、その絵が突然、生きて光り輝くのをごらんになりました。忘我の愛が、シュリ・ラーマクリシュナのはーとをみたしました。信者たちが香をたき、ロウソクを点灯しているキリスト教会の光景のヴィジョンが師の前に現れました。
三日の間、シュリ・ラーマクリシュナはつづけて、この経験に魅了された状態にあられました。四日目に、パンチャヴァティのそばを歩いているとき、彼は静かで聖らかな表情の一人の人物にあわれました。そのひとはじっと彼を見つめながら彼に近寄って来ました。シュリ・ラーマクリシュナは心の奥底で、「これが、人類の贖罪のために自らのハートの血をそそいだ人、イエスだ。これはキリスト以外の何者でもない」と悟られました。人の子はそのとき、シュリ・ラーマクリシュナを抱擁し、彼の中に入りました。シュリ・ラーマクリシュナは、超越意識の状態、すなわち、サマーディに入られました。このようにしてシュリ・ラーマクリシュナは、キリストの神性を確信されたのです。
シュリ・ラーマクリシュナが亡くなられて後まもなく、彼の若い弟子たちの中の9人は、カルカッタに近く、アントプルという村の、スワミ・プレマーナンダの生家に滞在しており、ある冬の寄る、そこで聖なる焚火を禍根で集まりました。
ここで彼らは、正式に放棄の誓いを建てました。このとき以後、彼らは僧として神に仕えることになったのです。彼らのリーダー、後のスワミ・ヴィヴェーカーナンダは彼らの、イエスの生涯の話をしました。そしてかれらの、みずからキリストとなるよう、世の救いのために働くことを誓うよう乞いました。彼は教だいたちに、キリストがしたように、自分を滅却することをつよくすすめました。あとできょうだいたちは、この日がクリスマス・イヴ、出家の誓いを立てるのに最もさい先のよい日であったことを知ったのです。
キリストは、神は見ることができる、神的完成は、今生でとげることができる、と断言しました。人びとがこの最高の目標に達することができるよう、彼は世俗性を非難しました。彼は神の黙想と、神への愛によって心を浄めることを教えたのです。