イエス・キリスト生誕祝賀会の講話

一九八七年一二月二四日

 イエス・キリストは神の国の到来を告げました。彼の教えの言葉は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一−十五)というものでした。それからまた彼は言われました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ十七−二〇、二一)

 ここでキリストは一般の見方をしりぞけ、神の王国についての最も大切な真理を述べておられます。「神の国は目に見える形で来るのではない。それは客観的に見ることのできるものではない。それは私たちの外に存在するのではない。私たちすべての内部に存在するのだ」と。

 神の国というのは、人がどこにいようと、彼のハートの中に神の臨在を意識することです。時間と空間に関係するものではありません。どこであれ、いつであれ、人は自分の内部に神の存在を意識することができるのですから。私たちはまさにいま、ここで、神の悟りを得ることができるのです。神の国はあなたの内にある、これが彼のお告げであります。

 神の国の思想、または天の王国の観念の源は、古いユダヤの信仰、またパレスチナの政治状況にさかのぼることができます。幾世紀にもわたって、パレスチナは外国からの侵略を受けていました。アッシリヤ人、およびバビロニヤ人が東から来、エジプト人、ギリシャ人およびローマ人が西から来ました。ユダヤ人は外国からの侵略者に対してなすすべを知りませんでした。

 人力による助けがあてにならないと、人は神の方に向き、彼の神聖な力による助けを乞うものです。ユダヤ人はこれをしました。彼らは主に、パレスチナを外国人の支配から解放する救世主を送って下さいと祈ったのです。

 彼らは主に、皆が正義の道を歩むことができるよう、地上に彼の王国を設立して下さいと祈りました。彼らは、主の慈悲深い支配のもとに、すべての不幸と苦しみがやむことを期待したのです。これがユダヤ人の信仰でした。ユダヤの予言者たちはこの信仰を伝えました。

 イエスが現れたときには、このような地上天国の理想が人々の心を支配していました。彼が用いた「神の国」という言葉は、誤って地上天国の意味に受け取られました。イエスは古いユダヤの言葉を使われましたが、これによって深い真理を表現されたのです。彼の観念は一般にユダヤ人たちのそれとは全く異なるものだったのでした。

 この言葉によって、イエスはハートの内なる神の経験を意味されました。それゆえ彼の教えは、天の王国はあなたの内にある、というものでした。さまざまのたとえ話によって、彼はこの新しい思想を説明されました。霊的に進歩した人々は、これを正しく理解しました。他の人々はまだ、その深い意味を把握することができませんでした。

 イエスが話された神の王国は、人々が死後に行きたいと願っている、一般に信じられているパラダイスではありませんでした。彼の神の国とは、人の内在の霊であるところの神との関係の、自覚を得ることなのでした。

 イエス・キリストは、愛と信仰と完全な帰依という彼の教えを守ることによって到達できる霊の王国を説いておられるのです。この国に入れば、すべての不幸と苦しみは止むのであります。

 さまざまの宗教が命じているさまざまの修行法の目的とするところはただ一つ、求道者が浄らかな生活を送ることができるように導く、というものです。自我の抑制および支配を教えるすべての目的は、人をこの偉大な徳に導くためのものであります。この世界のさまざまの宗教は、その教えやおきてについて争っているかも知れませんが、それらのすべては、霊性の開発の唯一の条件として純潔の徳を挙げているという点で一致しています。

 キリスト教の教え全部のエッセンスは、他のすべての宗教のそれと同じように、イエス・キリストのつぎのひとことの中に尽くされています。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神をみる」

 神の悟りの条件としては、他のいかなる徳も挙げられていません。貧しさや苦しみに耐えること、謙虚さ、正義への熱意、慈悲などのような諸徳は、求道者が霊性の生活において進歩し得るよう、彼を助けます。しかし、すべてのあこがれの最高頂である神の悟りは、霊において純粋な者たちのために残されているものです。

 この清らかさの徳の実証として、キリストは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ十八−十六)ここにも子供の持つ清らかさが天の王国へのパスポートであることが示されています。

 聖者の最大の徳は清らかさです。彼はこの徳だけですべての人を彼のもとに引き付けるのです。心の清らかな人のもらす一言二言は、私たちの全生涯を変えることができます。私たちは学識ある講演者の話に耳を傾けます。彼の議論と雄弁を高く評価します。彼の講話は私たちの知性を刺激します。彼の前を去って、彼から何を学んだかを考えてみたとき、悲しいことに、記憶の中に、自分を高揚させるようなものはひとつも残っていないことを知るのです。学識に関する講演は私たちを宗教生活に導き高めるようなことはほとんどありません。

 一方、素朴な人のもとに行ったときには、私たちは彼が語ったごくわずかの言葉を覚えています。彼の言葉は私たちの心の奥底を打ちます。私たちは自分を高めてくれる力を感じ、浄らかな生活を送りたいと願うようになります。彼から聞いたごく僅かな言葉が苦しみ、混乱、および不安のさなかに、燈台の役をつとめてくれます。それはなぜかというと、一人は清らかさの徳を備えており、もう一人は知的ではあるが、この基本的な徳を持っていないからであります。

 聖者、救世主と呼ばれる人々の霊的な力は清らかさから成っています。彼らは、私たちを高くはるかにぬきんでて立ち、私たちは彼らを神として、神的な存在として崇めます。イエスを人類の救い主の一人たらしめたのは、処女懐胎でもなければ、数々の奇跡でもありません。彼の内なる清らかさ、彼が不浄な願望を全く持っていなかったことが、われわれをして彼の前に恭しくこうべを垂れさせるのであります。

 イエスは悪に汚されていない人でした。かつて、いかなる低い願望にも支配されたことはありませんでした。欲望のゆえに道をふみ迷うなどということはなく、誘惑に捉えられることもありませんでした。ここにキリストの、そして他のすべての予言者や救世主たちの神性があるのです。最大の霊性の力は純粋性であります。

 清らかさには定義をつけることはできません。それは悪に汚れていない状態です。それは欲望に迷わされることも、誘惑に誘われることもありません。自分がそれを持っているときには、私たちはそれを意識しないでしょうが、それを失うと、自分が大きな宝を盗まれたことを知るのです。それは罪に先立つ、もとの状態、または子供の徳であります。子供は大した取柄は持っていなくても、その純粋さは最大の価値であります。

 清らかな魂は、無邪気で、素朴で、子供のようです。純粋な人は少しの努力もせずに、直ちに直観的に正しい道を知ります。彼は推理をしないのですが、はっきりと、誤りなくものを見ます。清らかさの力というものは説得力があり、抵抗しがたく、また、人を高揚させます。私たちはみな子供のような聖者の前にいると、そのことを感じます。思いに、言葉に、そして行いに清らかさを得ることは、すべての努力しつつある求道者の熱望であります。マグダラのマリアは、イエスの清らかさの力によって罪深い生活から救われました。いかなる世俗の知恵も、知的な教えも、あのような癒しを成し遂げることはできなかったでしょう。シュリ・ラーマクリシュナの生涯中のあるできごとが、やはりこの点を指摘しています。あるとき、モトゥル・バブーがシュリ・ラーマクリシュナの性格の清らかさをテストしたいと思いました。彼は、ある堕落した女たちと、ことを計画しました。女たちは彼女らの魅力によって彼を捕えようとしました。シュリ・ラーマクリシュナは、幼子の素朴さで彼女たちを見るや否や、彼女らをお母さんと呼んで法悦状態に入られました。彼は、女たちの道徳的堕落の姿や醜い計画をご覧にならなかったのです。彼の無垢な心には、すべての女性は神の現れだったのです。彼はいかなるものの中にも悪を見ることがおできにならなかったのです。彼の心中の子供の素朴さが奇跡を演じました。この女性たちの内部に押し込められていた母性愛が解き放たれ、彼女たちは罪を悔いました。

 清らかさが行為に現れると、率直な行動となり、そこには見せかけやずるさは見られません。純粋な言葉はかげの意味やあいまいさは持っていません。思いが純粋であると、悪い動機を含まぬ、事実の簡単な表現をします。心の清い人々は、愛と憎しみ、賞賛と侮蔑、善意と怒りを同じ目で見ます。なぜなら彼らはどこにも悪を見ることができないのですから。清らかさはまさに霊的生活の基盤です。

 心が清いと神を思うことができます。不断に神を思ううちにやがて神のヴィジョンを得、ついに神に合一します。これが清らかさの最高頂であり、宗教生活のゴールなのであります。

 ある日、イエス・キリストは、ガリラヤの岸に立って人々を教えておられました。非常に大勢の人が集まっていて、全部に聞こえるように話すのがむずかしかったので、彼は船にのり、そこにすわって教えられました。

 このときには彼は、直接神の王国や悔い改めの必要については説かれず、その代わりに、深い意味を持つたとえ話を取り上げられました。しかし、彼がその日に話された物語はすべて、天の王国に関するものでした。それは次のようなものです。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」こう言って、イエスは、「耳のある者は聞きなさい」と言われました。

 彼の弟子たちも、そこで聞いていた他の人々も、イエスがこのたとえ話で何を示されたのか、よく分かりませんでした。彼らは、健康な良い土地に落ちた種だけが良く育つのだということは知っていました。それでイエスみずからが、彼らに意味を説明なさいました。

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 次に彼は、良い種と悪い雑草のたとえ話をされました。

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』」

 イエスはこのたとえ話を次のように説明されました。

 「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈入れは世の終りのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである」

 イエスはまた、たとえ話を別の形で説明されました。

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」

 天の王国は真珠のようなもの。そして、他の何ものをもおいてそれを捜し求める人は、賢い商人のようなものです。賢い商人は、完璧な真珠を捜し求めます。それを見いだすと、他の持ち物のすべてを売り払ってもそれを買います。このように、真珠の商人も、天国を求める人も共に、最も大切な一つのもののために、他のすべてのものを捨てるのです。


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