イエス・キリスト生誕祝賀会の講話

一九八五年一二月二四日

緒論

 クリスマス・イヴとクリスマスの日は。人の宗教暦の二つの聖日です。これらの日は世界中で幾百万の男女によって祝われ、キリストは深い進行をもって礼拝されるのです。この崇拝の原因は、キリストが真の宗教の道を示し、霊性の自覚を得る方法を教え、全てのものに対して愛と自費を放射したからであります。彼はわれわれに、神は人生の最高の目標であるということを教えたのです。

ヒンドゥイズムとキリスト教

 ヒンドゥイズムとキリスト教は共に神の化身を認めています。キリスト教は、神は人としてたった一度、一九八五年前に地上に生まれた、その前には生まれたことはなかったし、将来も生まれることはない、と主張しています。この点ではヒンドゥイズムはもっとリベラルです。神の自費、彼の意志および働きに如何なるルールをおしつける理由もない、と考えるのです。過去には多くの化身が生まれましたし、未来にも、事情が神の降臨と介入を必要とするようであれば、もっと多くの化身が生まれることでありましょう。神の地上への降誕に制限をおくことは、彼の全能という性質を否定することであり、これは神そのものを否定するにも等しいことであります。一度起こったことは、同じ環境のもとに再び起こり得るものであり、出来事の反復は、自然界の不変の法則であります。

神の化身

 神は通常、徳が衰え、悪徳がはびこると地上に降りて来られます。神は、徳を確立し、悪を滅ぼし、有徳の人々を救うために、肉体に宿って来られるのです。今日は、キリストの神性、すなわちキリストとしての現れ、について考えて見ましょう。

当時の環境

 キリストの誕生の前、ユダヤ人たちは彼らの予言者たちが予言していた救世主の誕生を待ち望んでいました。ユダヤ人は工事政治的にローマの支配下にありましたので、彼らは政治上の救済者を期待していたのでした。宗教は堕落して、生命の無い祭祀や儀式の塊と化していました。純粋さも、霊的な力も失っていました。特派姿を消し、悪徳がはびこっていました。道徳的霊的堕落を正すために神が降臨されるべき時は熟していたのであります。

初めの徴し

 神の御使いたちが、ヨセフに、聖霊が彼らの息子として到来されることを前もって告げたのでした。これはキリストの神性の一つの啓示でありました。ヨセフとマリヤがいなくなった彼らの息子をエルサレムの神殿に見いだして、なぜ自分たちについて来なかったのかと尋ねたとき、彼は答えて、「なぜ私をお探しになったのですか。私は父のお仕事をしなければならないのだと、ということをご存じないのですか。」と言いました。ここでは、キリスト水か亜我彼の神聖な運命を暗示しておられます。

  ヨハネ

 バプテスマのヨハネは、キリストの神聖な使命のことを初めて公に宣言した人でした。彼は、神の子の先ぶれだったのです。神の現れられる時が到来したことを見たのでした。

 ヨハネは聖者であり、神について語ることのできる偉大な教師でした。彼は水だけで洗礼を授けることができましたが、人に神を示すことはできませんでした。キリストは、聖霊を持って洗礼を施し、人の霊の眼を開き、霊性の力を与えることができました。彼は人々をして、神を見ることを得させることを得させました。キリストは、人を霊として生まれ変わらせることができたのです。これは神の化身のみの特権であって、人の力の及ぶところではありません。ヨハネは人、キリストは神だったのです。

シモンとアンデレ

 ガリラヤの海のほとりを歩いていて、イエスはシモンとアンデレという二人の漁夫に逢われました。彼は二人に向かって、「私についておいで、あなた方を、人々をすなどる者にして上げよう。」と言われました。二人の兄弟は網をすてて(マタイ4)直ちに彼に従いました。何が彼らをして、見知らぬ人の言葉を信じ、一切を捨てて彼に従うことを敢えてさせたのでしょうか。彼らが、普通の人間にこのようについて行くようなことをしたでしょうか。否、たしかに、彼らはキリストの中に彼らの救い主を見たに違いありませんん。そして彼らが聞いた呼び声は鴨の言葉だったのです。

サマリヤの女

 ヤコブの井戸で、イエスはサマリヤの婦人に向かって、「この水を飲む者はやがてまたのどがかわくが、私が上げる水を飲む者は再び乾くことはない。」と言われました。婦人は答えて言いました、「そうです、私は救世主が来られればそういうことが起こる、ちうことを知っております。彼が来られれば、彼が私たちに一切のことをお明かしになるでしょう。」と。これを菊とイエスは彼女に、「いまあなたに話している私が彼なのである。」と言われました。ここでイエスは、彼が修正主であられることを明らかにされたのです。彼ら自らがその本性を示されない限り、神人を認識するのは容易なことではありません。救世主が与えるのは生命の水、それを味わって人は満足するのです。

ユダヤの法律

 ユダヤの法律には、人は心を尽くして主を愛すべきであり、また隣人を己と同様に愛すべきである、と書いてあります。しかし、ユダヤ民族によると、隣人とはそばに住んでいる人ではなく、宗教を同じくする人のことでありました。ユダヤの役人はイエスを誘導する目的で彼に尋ねました、「私の隣人は誰であるか。」 これに答えてイエスは、善きサマリヤ人の話を語られました。このたとえ話によってイエスは、隣人愛というのは同じ進行または国家に属する者同志の愛ではなく、人に対する同情と無私の奉仕である、ということを明かされました。すべての時代、すべての場所において、すべての良き人々は互いに隣人なのです。高貴な人々は常に他者に奉仕し、また他者の奉仕を受けることのできる人なのです。このようにして、ユダヤのせまい宗派的な法律は、イエス・キリストのよって普遍的な、すべてを包括するものとされたのでした。神人は特定のとき、とき邸の人々に属するものではありません。彼らは全世界に属するのです。

赦し

 あらゆる聖者は、宗教の道を歩もうと志す男女に、愛と自費の心を養うことを求めています。キリストも、他の聖者たちと同じく、赦しの精神を説きました。もしわれわれが赦さなければ、そこには決して霊性の進歩は、否、社会の進歩さえも、あり得ません。われわれは他者を許さなければなりません。なぜなら、もし、自分の違反を許してもらうことができなかったら、われわれは生きることはできないのです。キリストは教えています、「裁くな、自分が裁かれないためである。...あなたが裁くその裁きで、あなたが裁かれるであろう。あなたが計るそのものさしで、あなたが計られるであろう。」(マタイ7)

 聖ペテロがイエス・キリストのところに来て、「主よ、兄弟の私に対する罪は何回まで許すべきでしょうか。七回まででしょうか。」と尋ねました。イエスは答えて、「私は七回とは言わないぞ。七たびの七十倍だけ許さなければならないのだ。」と言いました。これが、道徳生活の最高のレベルです。例的生活の初歩の段階にある普通の信仰者は、このレベルには容易には登ことはできません。しかし、徐々に行われる進歩、たゆまぬ努力および正しい修行(実践)によっていつかは、この最高段階に達するのです。

祈り

 キリストは、信仰者の願いをかなえてくださる神との直接の交流の手段として、祈りを非常に重要視しています。彼は、真摯なハートから生まれる正しい祈りを強調しています。偽善者たちが道ばたで、他者に見られ賞賛されるのが目的でとなえるような祈りを戒めています。祈りはのどから来て来るものであってはならない、ハートから生まれるものでなければならないのです。キリストは、真剣なハートから生まれる、ひそかな祈りを教えています。

 われわれは、神はつんぼでもなければめくらでもないということを覚えていなければなりません。もし誰かが真剣に彼にお願いするなら、彼は必ず、その求道者を助け、彼の心からの願いをかなえて下さいます。シュリ・ラーマクリシュナは、「主は蟻の足音さえお聞きになるのだ、彼がわれわれの祈りを聞いてくださらない、などということがあろうか。」と言っておられます。

 ある日、「シュリ・ラーマクリシュナの復員」の著者Mが師にこう言いました、「神はある人には完全な霊性の悟りをあ与えになり、ある人は無知のままにしてお置きになるのですね。」と。シュリ・ラーマクリシュナは直ちにそれを正され、こう言われました、「いや、そうではない。人は渇仰心をもって彼に祈らなければならないのだ。祈りが真剣なものであれば、神は必ずきいてくださるのだよ。そのことに疑いの余地はない。」

 祈りは用心と識別をもって行われなければなりません。われわれは、本当は自分たちのために善くないことをお願いするかも知れないからです。祈りによって、結局は自分の破滅につながるようなことがかなえられるかも知れません。ですからキリストは、注意して祈れ、と教えています。

 信者は神に自分の願望の成就を祈ります。その小野利をかなえさせるか否かは神のお仕事です。なぜなら、彼のみが、信者にとって何が一番良いのかということを知っておられるのですから。彼の偉大な叡知によって、神は頼まれたさまざまのものを、つまりその信者のためにならないものを、拒否なさるでありましょう。

 信者は、祈りがすぐにかなえられなくても決して信仰を失ってはなりません。師たちやもろもろの聖典はわれわれに、神に命令してはいけない、と告げています。神は最高の審判者であり、最善の主人であられます。われわれは、「あなたの御心が成就しますように。」という、キリストの教えを忘れないようにしなければなりません。あらゆる境遇にあって神に一切をお任せする、ということは、宗教生活の指導的モットーであるべきです。

 キリストは、すべての人のために祈りました。彼は、自分を迫害したものたちのために祈りました、「父よ、彼らを許して下さい。彼らは自分たちが何をしているかを知らないのです。」 これがキリストの言葉でした。十字架上のキリストのこの祈りほど不覚われわれの心を打つものはありません。神の直接の悟りを得た賢者たちはことごとく、霊性の生活の中での祈りの重要さを述べています。祈りは神の慈悲の扉をたやすく開く、最も簡単な道であり、直接の礼拝の形式であるからです。

 祈りは神に話しかけることです。それは神に近づこうとする人間の心の努力の現れです。ちょうど、われわれの仲間との接触が会話の形をとるのと同様に、人間の心の神との出会いは内なる会話の形を取るのです。祈りは霊的渇仰を表現しようとする心の努力です。

 ちょうど子供が自分のほしいものを親に打ち明けるように、または召使が自分の困難を主人に打ち明けるように、人の心はその困難を、欠乏を、願望を、また渇仰を正直に語ります。子供は欲するものを打ち明けることによって親にもっと近づき、親との関係を理解するでしょう。同様に、祈りは人を神のもっと近くに連れて行き、彼の神との関係を示します。祈りが他の酒興形式と異なるのは、この神に語り掛け、彼の恩寵に頼る、という点なのです。祈りは、強い信仰−−−神の存在および彼の慈悲深い答えに対する強い信仰−−−によって支えられなければなりません。

 祈りは世俗的なものであるかも知れないし、霊的なものであるかも知れません。世俗的な祈りは世俗の願望や要求の成就を願うものです。人生は実に不確実なものです。誰の書画委にも、自分は抵抗不可能な力につかまれてしまった、と感じるときがあるものです。恐怖と絶望におちいTTS途方にくれ、幾万の人々が神の方に振り向いて祈るのです。

 霊的な祈りの主な目的は、心が清まり、霊的向上ができるように、神の助けを願うことです。祈りはより高い自覚を求めての努力の第一段階を示すものです。祈りは神の導きを願うものです。

 求道者は、さまざまの言葉を用いた嘆願の祈りによって、彼の霊的生活を始めるでしょう。しかし、祈りが不覚強くなるにつれて、言葉は自然に脱落し、ハートは無言の渇仰心だけが残ります。心は神に向かって流れます。祈りはひとりでに瞑想に変容するのです。っこれが祈りの究極の目標です。


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