信 仰 の 数 だ け 道 が あ る
シュリ・ラーマクリシュナの生涯と教え

一九九七年七月十六日大阪・インド文化センターにて

 シュリ・ラーマクリシュナの話を始める前に、ヒンドゥ教の最も古い経典、ヴェーダにある平和のマントラを唱えたいと思います。祈りはサンスクリット〔語〕で唱えます。サンスクリットは神の言葉です。今から唱える祈りは全宇宙のあらゆる生命の安寧を神に祈るためのものです。各マントラの終わりに、「オーム・シャンティヒ・シャンティヒ・シャンティヒ」と私が唱えた後、どうぞ皆さんも復唱なさってください。「オーム・シャンティヒ・シャンティヒ・シャンティヒ」とは「平和、平和、平和」という意味です。ここで少し練習しましょう。〔練習が入る〕どうもありがとうございました。マントラを唱えたあと、三分間黙想します。その間に、全人類の平和と幸福を祈りましょう。沈黙することは、その後の聖者シュリ・ラーマクリシュナの話を聞くための心の準備にもなるでしょう。

 〔マントラ朗唱、黙想〕

 今からシュリ・ラーマクリシュナの話を始めますが、まずある出来事からお話しましょう。それはアメリカであったことですが、ラーマクリシュナ・オーダー(僧団)の一人の僧がアメリカ人のある有名な教授に『シュリ・ラーマクリシュナの福音』を読んでみてくれないかと頼みました。その教授は数ページ読んだだけで、「この中に書かれているいくつかの考えが気に入らない」 と言って僧に『福音』を返そうとしました。僧は「気に入らない部分はとばしていいから、とにかく最後まで読んでみてください」と言いました。その教授は最後まで読み、何日か経って、その僧に会ったときに、「私はこの本がとても好きになりました。現在、アメリカ社会はドルという王とセックスという女王に支配されています。この二つの問題を解決するのは、シュリ・ラーマクリシュナの教えしかありません」と言いました。

 ではシュリ・ラーマクリシュナとは何者なのでしょうか。その教えとは何なのでしょうか。インドは宗教の宝庫であり、また多くの聖者を生み出した地でもあります。世界の四大宗教――ヒンドゥ教、ジャイナ教、仏教、シーク教――は、インドで生まれました。ペルシャがイスラームの侵略を受けて、ゾロアスター教徒が国を出なければならなくなった時、インドは彼らに逃げ場を与え、彼らを受け入れました。シュリ・ラーマクリシュナは現代インドの聖者で、一八三六年に生まれ一八八六年にマハー・サマーディ(大いなる三昧の世界)に入りました。日本の人々は今、徐々にではありますが、この偉大な聖者の名前、教え、生涯について知りつつあります。シュリ・ラーマクリシュナの生涯と教えについて、すでに本が何冊か出ています。その一冊はフランス人で偉大な作家であり学者でもあるロマン・ローランの書いた『シュリ・ラーマクリシュナの生涯』です。それから田中嫺玉さんの書いた『ラーマクリシュナの福音』と『不滅の言葉』があります。また一九九五年にはNHKの教育チャンネルで大学教授の奈良毅先生がシュリ・ラーマクリシュナの教えについて一時間お話されました。皆さんの中には、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。その番組はその後、二回再放送されました。これらの出版物や放送のおかげで、シュリ・ラーマクリシュナの名前が次第に日本人に親しまれつつあります。

 しかし宗教界ではシュリ・ラーマクリシュナの名前は、すでに知られております。世界の比較宗教についての本、世界の宗教の歴史について書かれた本の中で、シュリ・ラーマクリシュナについて特記していないものはありません。インドそして西洋の学者、賢者たちがシュリ・ラーマクリシュナを称讃しております。例えばインドでは、聖仙オーロビンド、マハトマ・ガンディー、詩人ラビンドラナート・タゴール、初代インド首相ジャワハルラール・ネールーといった人々がシュリ・ラーマクリシュナを褒め称えています。マハトマ・ガンディーは「シュリ・ラーマクリシュナの生涯は、私たちも一対一で神と対面できることを教えてくれる」と言っています。何百、何千という人々がシュリ・ラーマクリシュナの教えにより救われました。詩人タゴールはシュリ・ラーマクリシュナを褒め称える、美しい詩を書いています。まずこれをベンガル語でご紹介しましょう。皆さんはベンガル語を耳にする機会があまりないのではありませんか。タゴールはアジア人で最初のノーベル賞受賞者です。

 〔マハラージがベンガル語で朗唱する〕

 英語に訳しましょう。「多くの信者の祈りの流れが/御身の瞑想に交じり合う/御身は無限の喜びの道しるべ/美しい巡礼の道へ誘い/世界の国のあらゆる人の、私の/心からの敬礼と讃美を受け取り給え」

 また外国の学者の中には、十九世紀のオックスフォード大学のインド学の大家、フレデリック・マックス・ミュラー(ドイツ出身)と、先ほど申し上げたロマン・ローランが、シュリ・ラーマクリシュナの伝記を書いています。今世紀の偉大な歴史学者、アーノルド・トインビーも「シュリ・ラーマクリシュナの教えは現代社会の問題の最もよい解決法である」と言っております。『シュリ・ラーマクリシュナの福音』は最初ベンガル語で書かれました。その後ミッションのニューヨークのセンター長であったスワミ・ニキラーナンダジによって英語に翻訳されました。かつてのアメリカ大統領の娘、マーガレット・ウッドロー・ウィルソン嬢が翻訳を手伝い、今世紀の有名な作家、オルダス・ハクスリーがその本に序文を載せました。このように、さまざまな分野で活躍しているさまざまな人がシュリ・ラーマクリシュナの偉大さを認めているのです。では一般の人はどうでしょう。あらゆる国において、そして特にインドにおいてですが、何百万という求道者がシュリ・ラーマクリシュナを敬っております。それは仏教徒が仏陀を、キリスト教徒がイエス・キリストを、イスラーム教徒が預言者ムハンマド(マホメット)を敬うのと同じです。ヒンドゥ教徒だけではなく、他の宗教の信徒もその生涯と教えから感銘を受けています。友人にカトリックの神父がいますが、彼が私に「スワミジ、私たちの多くが『シュリ・ラーマクリシュナの福音』を読み、そこから 霊 感 を受けていることをご存じでしょうか」と言いました。特に信心家でない人たちも『シュリ・ラーマクリシュナの福音』を読み、大きな喜びと心の平安を得ています。

 木の性質がその果実から分かるように、教師はその生徒から、グル(霊性の師)はその弟子からその性質が分かります。シュリ・ラーマクリシュナは存命中は限られた数の弟子しか持っていませんでしたが、その弟子たちのほとんどが言わば霊的な巨人でありました。そのうちの最も有名な人がスワミ・ヴィヴェーカーナンダです。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは一八九三年にアメリカで開かれた万国宗教会議に出席しました。この会議はコロンブスのアメリカ大陸発見四百周年を記念して催されたものです。スワミ・ヴィヴェーカーナンダはアメリカに行く途中に日本に立ち寄り、大阪、京都、東京、横浜を訪れました。彼に会う特権を得た数人の日本人は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダを『第二の仏陀』にたとえています。世界的に有名な宗教関係の人たちが出席しているその会議で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは最も著名な講演者となりました。

 皆さんの中には、岡倉天心がラビンドラナート・タゴールと親交があったことをご存じの方もいらっしゃるでしょう。しかし岡倉天心が最初インドに行ったのは、スワミ・ヴィヴェーカーナンダに、ヴェーダーンタの教えを日本に紹介するための来日を要請するためであったことをご存じの方は恐らくほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。会見の後、岡倉天心がしたためた手紙には「スワミ・ヴィヴェーカーナンダは私が今まで会った人の中で最も偉大な人物だ」と書いてありました。しかしスワミ・ヴィヴェーカーナンダは健康を害して、結局日本へ来ることはできませんでした。スワミ・ヴィヴェーカーナンダはシュリ・ラーマクリシュナを自分のグルとして受け入れる前に、彼のあらゆる言葉、行為、経験を試しました。ついに自分のグルとして受け入れ、こう言いました、「シュリ・ラーマクリシュナはたった一握りの塵で何千というヴィヴェーカーナンダを創り出すことがおできになる」と。スワミ・ヴィヴェーカーナンダを知る人たち、スワミ・ヴィヴェーカーナンダを勉強した人たちが、彼を、あらゆる言葉を尽くして褒め称えられる最後の人だと言っているのは、誇張にすぎないのでしょうか。

 皆さんのお手元のパンフレットに、シュリ・ラーマクリシュナの写真が載っていると思いますが、彼はか弱く見えませんか。しかし顔は常に霊的な喜びで輝いています。シュリ・ラーマクリシュナは霊性の巨大な発電所なのです。神を悟ることは大変難しいことですが、シュリ・ラーマクリシュナにとってはそうではありませんでした。また彼はたった一瞥、たった一触れ、時にはただ念ずるだけで、他人に神を悟らせることもできました。しかしこの場では、シュリ・ラーマクリシュナの生涯のことについて詳しくお話はしません。彼の霊性の修行について少しだけお話しましょう。彼はヒンドゥ教の経典に書かれているあらゆる神を悟る道を試しました。バクティの道では、信者は神とある関係を持ち、神を呼び、神を悟ります。神との関係は五種類あります。一つは神を自分の父や母とみなす関係で、古代インドの賢者、キリスト教徒がその方法をとっています。二つ目は神を自分の主人と見る関係で、ハヌマーンはラーマに対してこの態度をとっています。三つ目は神を自分の友達とみる方法で、ヴリンダーバンにおける牛飼いの少年たちのクリシュナに対する態度がその例です。それから神を自分の最愛の子供とみる方法があり、母ヤショーダーとクリシュナの関係がその例です。そして一番崇高なものは、神を自分の恋人とみる方法で、ヴリンダーバンにおけるラーダーを含めた乳絞りの女たちとクリシュナの関係がその例です。シュリ・ラーマクリシュナはこれらすべての方法を実践し、神を悟りました。それだけではなく、神を形あるものとしてみる方法、そして形のないものとしてみる方法、つまり非二元論ヴェーダーンタも実践しました。これらの絶え間ない修行で、彼はサマーディ(三昧)、つまり彼の魂が至高の魂に溶け入ること、を経験しました。そしてキリスト教とイスラーム教の方法も実践し、それらの方法によっても神を悟りました。彼は仏陀をもたいそう敬愛していて、神の生まれ変わりの一人として受け入れています。このように霊性において、シュリ・ラーマクリシュナは大変豊かな経験を持っており、彼に匹敵する人は世界にほとんどいません。

 偉大な霊性を持っているだけでなく、他の才能も持っていました。それは人々を何時間でも惹きつける才能です。大変話が上手で、身振り手振りを交えながら話しました。彼の会話は機知に富んでいて、話のレパートリーも広く、鋭いユーモアのセンスもありました。すばらしい声を持っていました。時々神を思い、忘我の境地になって踊りました。これらすべてでもって、聞く人を何時間でも魅了したのです。一度『シュリ・ラーマクリシュナの福音』を読み出したら、『福音』の勉強をしていることを忘れてしまうでしょう。読む人は自分が彼の話を聞く聴衆の一人になったような気がするでしょう。

 シュリ・ラーマクリシュナの霊性の教え、言うなれば彼の霊的経験の真髄は何でしょうか。時間がないので、全部を申し上げることはできませんが、まず第一に言えることは、神はそれを信ずる人たちが勝手に作ったものではない、意図的に作られたものでもない、想像上のものでも、その存在の真偽のほどが疑わしいものでもないということです。神は実在です。では神とは一体何でしょうか。これは多くの人が持つ疑問です。以前私がインドを汽車で旅していたとき、ある一人の若い学者が近づいてきました。インドでは僧衣を身に纏った者を見ると、霊性のことにさして興味のない人でもいろいろ質問をしてきます。その学者は「スワミジ、あなたは神を見たことがありますか」と私に聞きました。そこで私は「あなたの言う神とはどういう意味ですか」と聞き返しました。しかしその学者は明確な神の概念を持っているわけではなく、混乱してしまいました。

 そこで「神とは何なのか」という疑問が湧いてきます。神には、内在的と超越的という二つの面があります。神はこの世の形あるすべてのもの、そしてすべての現象に内在しています。例えば、人間、動物、木、このテーブル、この椅子、この電気などあらゆるもの、またこの雲、空、空気、海など、あらゆる現象の中にいます。それと同時に、神は超越したもので、純粋意識なのです。哲学者の中には、神は知り得ないと言う人がいますが、本当にそうなのでしょうか。いいえ、神は知ることができます。人は神を見ることができます。シュリ・ラーマクリシュナは、皆さんは友達と話すように神と話すことができると言っています。神を悟るといったことは過去の出来事なのでしょうか、それとも今もできるのでしょうか。答えはこうです、適切な方法に従って真摯な気持ちで修行するなら、今この場においても神を悟ることができます。神を悟ることは、僧にのみ可能で、俗世間で暮らしている在家の人には不可能なことでしょうか。決してそうではありません。在家の人も神を悟ることができるのです。シュリ・ラーマクリシュナにも在家の信者が大勢いました。ただし在家の人は執着心をなくし、一方で世俗の務めをしなくてはなりません。シュリ・ラーマクリシュナはそれを水に浮くボートにたとえています。ボートは水上にありますが、ボートの中に水はありません。もしボートの中に水が入ってきたら、ボートはどうなるでしょうか。沈んでしまいますね。このように、在家の人は家族の中にいても家族の中に溺れてしまわないようにしなくてはなりません。

 次に「何故人は神を悟らなければならないのか。今こんなに幸せに暮らしているのに……。どういう必要性があるのか」という疑問が生じてきます。もし真の平和を欲するなら、永遠の平和を欲するなら、永遠の喜びを欲するなら、神を悟ることによってのみ、それらが得られるのです。ヴェーダの賢者が「……[サンスクリット語の経文]」と言っているように、「それ以外の道はない」のです。ヒンドゥ教徒が「イシュワラ」と言っているものと、キリスト教徒が「ゴッド」と言っているものと、イスラーム教徒が「アッラーフ」と言っているものは、それぞれ違うものでしょうか。いいえ、それらは本質的にひとつで、同じなのです。これについてもシュリ・ラーマクリシュナはうまい例えで説明しています。ヒンドゥ教徒が「ジャル」と言っているもの、キリスト教徒が「ウォーター」と言っているもの、イスラーム教徒が「パニー」と言っているもの、そしてここに日本語の「みず」も追加するべきでしょうが、それらは本質的にすべて同じH2Oなのです。では、キリスト教の方法が唯一正しい道=方法で、他のやり方は間違いなのでしょうか。或いはヒンドゥ教の方法がただ一つの正しい方法で、他のやり方は正しくないのでしょうか。シュリ・ラーマクリシュナはこれを否定し、すべての道が神の悟りに通じると言っています。皆さんのお手元にお配りしたパンフレットの一ページ目にシュリ・ラーマクリシュナの有名な言葉が引用されています、「信仰の数だけ道がある」と。これはベンガル語で「……[ベンガル語]」と言いますが、皆さん、この言葉の美しいリズムをお分かりいただけたでしょうか。形ある神を実質として信仰する宗教もあれば、形のない神を実質として信仰する宗教もあります。通常ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教といったセム系の人々の宗教は、形のない神を実質として信仰しています。また神を形も実質もない、純粋意識とする宗教もあります。しかし、これらすべての道が神の悟りの道なのです。ではある宗教の信仰者の他の宗教への態度はどうあるべきでしょうか。このことは常に問題となってきました。シュリ・ラーマクリシュナはこれについて見事な例えを挙げています。妻は夫と特別な関係にあるが、舅姑や義理の兄弟姉妹といった夫の親戚のことも大切に思い敬いもする、しかし妻が一番愛しく思っているのは夫である。自分の信仰する宗教に対しても、妻の夫への態度のようであるべきだ、それと同時に他の宗教に対しても、妻が夫の親戚を敬うように、敬意を持たなくてはならないと言っています。なんとすばらしい例えでしょう。

 では、これら個別の宗教の一番核になる考えは何でしょうか。第一には、神は私たちの中にいる、外に神を探しに行く必要はない、ということです。タゴールが「麝香鹿みたいに/自分の匂いで気違いみたいになって/私も混乱した状態で/森から森へ走り回っている」とうたっています。私たちは時々この麝香鹿のようです。麝香鹿は香わしい匂いが自身から出ていることに気付かないで、匂いの源はどこか走り回って探します。第二には、私たちは心を純化しなければいけないということです。私たちの心の中には不純なものが六つあります。それは情欲、怒り、貪欲、迷い、うぬぼれ、嫉妬心です。これらを克服するために、私たちは神を呼び、神を瞑想するのです。

 それには二つの方法があります。まず一つは、ヨーギの道で、心から感覚の対象物を取り除き、心を神、或いは意識に向けます。もうひとつの方法はよく詩人や芸術家が描いていますが、この宇宙のあらゆる事物、現象は神或いは意識の現れであると見ます。タゴールがうたっています。「感覚のすべての対象を遮断するのは私のやり方ではない」。そして「崇高さがある所は/どこにでも/見えるもの、香り、音楽/その中心に澄み切った/御身の喜びがあふれている」と。しかし普通の求道者はこの両方を実践する方がいいでしょう。時々目を閉じて心中に神を瞑想し、また時には自然の美を神や意識の現れとして見るのです。本当に神を悟りたいなら、アルバイトや(笑い)パートの仕事みたいに一時だけそれをやる、といったやり方ではできません。ある一人のスーフィー派(イスラーム神秘主義)の聖者が「あなたは神を思っていますか」と尋ねられて、「思っている」と答えました。すると質問者は「では時々悪魔のことも思っていますか」と尋ねました。これに対してその聖者は大変意義深い答えをしています。「どこにそんな時間があるのか」と。いつも神を思っているので、悪魔のことを思う時間がないのです。このような熱心さで取り組むと、神を悟ることができます。だから、神の悟りはパートタイムの仕事ではなく、フルタイムの仕事なのだと、私は申し上げるのです。それは八時間労働ではなく、二四時間労働です。シュリ・ラーマクリシュナも「修行、修行、修行」といつも言っています。スワミ・ヴィヴェーカーナンダも「一オンスの修行は一トンの言葉より百倍いい(=言葉より実践)」と言っています。 シュリ・ラーマクリシュナはこうも言っています。「ガンジス川のほとりに佇んで『魚、魚、魚』と何度繰り返して言ったところで、魚は来るかね。魚を捕りたいのなら、その努力をしなければならない。人々はこの矛盾に陥りやすい。」あらゆる分野において何かを成し遂げたいのなら、忍耐と努力が必要です。

 これについてシタール奏者のラビ・シャンカールの伝記からお話をしましょう。ラビ・シャンカールの名前を恐らく皆さんご存じでしょう。彼はアラーウッディーン・カーンという音楽の師の下で修業していました。その師は音楽の世界において伝説的存在でした。ラビ・シャンカールが師からシタールを習っていた頃、師の息子アリー・アクバルも師からサロードという楽器を習っていました。二人は毎日長時間稽古をしなければいけませんでした。そして少しでも間違うと、ラビ・シャンカールはアラーウッディーンからきつく叱られます。息子のアリー・アクバルにいたっては叱られるだけではなく、時々ぶたれもしました。ある意味では、神を悟ることは大学入学試験に受かるよりはずっと易しいのです。皆さんは試験の準備を必死になってなさったことがおありでしょう。何日も徹夜で勉強なさった方もいらっしゃるでしょう。そして不安に駆られたりもなさったでしょう。それと比較すると神を悟ることはそれよりも易しいのです。

 この点について、シュリ・ラーマクリシュナの教えの特徴は何でしょうか。皆さんお疲れではないですか。お疲れでないなら、(休憩を入れずに)話を続けますが……。それでは続けることにしましょう。第一の特徴は、シュリ・ラーマクリシュナの教えは大変現代に合っていることです。この時代に適切な教えです。それはシュリ・ラーマクリシュナはこの時代に生まれたので、この時代の問題のことをよく知っているからです。現代社会の問題については皆さんよくご存じでしょうから、今ここで詳しくは申しません。大変簡潔に言うなら、それは懐疑主義と無神論と唯物論と不可知論でしょう。科学者の中には「神なんていない」と言う人たちがいます。霊性の求道者が「肉体を所有しているのは魂だ」と言う一方で、唯物論を唱える哲学者たちは「肉体が魂を所有しているのだ」と主張します。古代インドチャールヴァーカ)唯物論)の哲学者が「…〔サンスクリット語の引用〕肉体が燃えてしまったら、魂がどのようにして戻ってこれるというのか。肉体が燃えたらすべて終わってしまうのだ。あとには何も残らない」と言いました。そして現代は娯楽が満ち溢れ、それに対する欲求も強くあり、それを満たすことが人生の目的のようになっています。豊かな生活を求めて苛酷な競争があります。そしてアイデンティティ危機の問題もあります。自分は誰か、何故自分は生まれてきたのか、自分の人生の目的は何か、このような疑問で私たちは非常に混乱しています。シュリ・ラーマクリシュナは、これらの現代社会の問題すべてに対する答えを持っています。彼は現代に生きる私たちに、全体論的アプローチを勧めています。それは心、肉体、知性を気遣うと同時に、魂のことも気遣うというものです。宗教の調和ということも現代社会における課題です。すでに申し上げたように、シュリ・ラーマクリシュナはあらゆる宗教の方法を実践して、「信仰の数だけ道がある」と証明しました。これが解決策なのです。あとはこれを実践することです。このようにシュリ・ラーマクリシュナの教えは大変現代的なのです。

 またシュリ・ラーマクリシュナの教えは大変論理的です。それは時々論理を超越しますが、非論理的ではありません。シュリ・ラーマクリシュナはカーリー母神を宇宙の創造者として信仰していました。ある人が「カーリー母神の像はこんなに小さいのに、どうやってこの大きな宇宙を創ったのか」と彼に尋ねました。これに対する答えは大変美しく、科学的で、論理的なものでした。彼は「地球と太陽ではどちらが大きいかね」と聞き返しました。答えはもちろん太陽です。そこで彼は再び「では何故太陽は小さい皿のようにしか見えないのか」と聞いたところ、その人は「我々が太陽からとても遠い所にいるので、小さくしか見えないのです」と答えました。シュリ・ラーマクリシュナは「それが理由だよ。我々はカーリー母神からたいそう遠い所にいるから、カーリーが小さく見えるのだよ。カーリー母神に近づけば近づくほど、その無限の大きさに気付くだろう」と言いました。シュリ・ラーマクリシュナの教えは、大変簡単で、取っ付きやすいと同時に、とても深く、面白いものです。いかに面白いか、例を挙げましょう。それは私たちの生来の特性についての話です。

 山羊の群れの中で育てられた子トラがいました。山羊が草を食べると、その子トラも同じように草を食べていました。肉食獣がその群れを襲うと、山羊たちと同じように子トラも逃げます。山羊がメエメエ鳴くと子トラも同じようにメエメエ鳴きます。皆さんは山羊の鳴き声を聞いたことがおありですか。インドではいたるところで聞くチャンスがあるのですが……。やがてその子トラは成長して立派な体躯の成獣になったのですが、行動は依然として山羊のままでした。ある時とても狂暴なトラが山羊の群れを襲いました。そして群れの中にトラがいるのを見て驚きました。逃げ惑うトラを捕まえましたが、それは狂暴なトラを目前にして恐ろしさのあまりメエメエと鳴きました。狂暴なトラはそれを池のところに連れて行き、水面に映った自分たちの姿を見せて、「見てごらん。お前の顔は私の顔と同じだよ」と言いました。そして肉片を口の中に押し込みましたが、最初そのトラは食べられませんでした。しかしだんだん肉の味に慣れてきて、ついにはそれを好むようになりました。狂暴なトラはそのトラに対し「何て恥かしいことだ! トラなのに、山羊のようにメエメエ鳴き、山羊のように草を食べているなんて……」と言い、そのトラも自分のことを恥かしく思いました。そしてついに仲間のトラについてジャングルに入っていきました。ここで比較をしてみましょう。草を食べ、メエメエと鳴くことは、世俗的な楽しみで満足していることと同じです。水面に映った自分の姿を見るのは、自分自身の真の姿を理解するということです。仲間のトラについて森に入るということは、霊性の師に救いを求めることです。この物語の教訓は、本来我々は無限で、黄金の心を持っているのですが、そのことを忘れて、限りある魂だと錯覚し、束縛され苦しんでいるということです。

 シュリ・ラーマクリシュナの教えは大変実際的です。ある在家の信者が「悪い人が自分を攻撃したらどのように対処すればよろしいのでしょうか」と尋ねたところ、「自分の身を守る術は知っていなければいけないが、相手を傷付けてはいけないよ」と答えました。言葉は簡単ですが、話の内容は簡単ではありません。信者になることは、愚か者になることではありません。

 シュリ・ラーマクリシュナの教えのもう一つの特徴は大変普遍的であることです。あらゆる種類の人々がそこからインスピレーションを得ています。聖者も罪人も、在家の人も僧も、金持ちも貧しい人も、学者も非識字者も、他の宗教の信仰者も、その教えからインスピレーションを得ることができます。

 最後に、シュリ・ラーマクリシュナの話は、面白さに満ちていることが特徴として挙げられます。例をご紹介しましょう。ベンガルの偉大な小説家、バンキム・チャンドラ・チャタルジーがシュリ・ラーマクリシュナのところに話を聞きに来た時のことです。友人も何人か一緒でした。彼らは皆西洋式の教育を受けていて、英語が堪能でした。シュリ・ラーマクリシュナは無学で、「Thank you.」などごくわずかな単語を除いては、英語も知りませんでした。シュリ・ラーマクリシュナの話を聞いたあと、バンキム・チャンドラの一行は仲間内でコメントらしきことを英語でヒソヒソと話しだしました。彼らは自分たちの話をシュリ・ラーマクリシュナに聞かれたくなかったのです。シュリ・ラーマクリシュナはこれに気付いて「何を話しているのかね」と尋ねました。一人が「別に何も……」と答えましたが、シュリ・ラーマクリシュナは納得しませんでした。そしてこれに関連して、ある話を始めました。あるとき散髪屋が一人の紳士の髭を剃っていました。紳士は剃刀で少し傷つけられました。その紳士は痛さのあまり、「ダム、ダム」と叫びました。散髪屋は英語を知らなかったので「ダム」の意味が分かりませんでした。剃刀など道具を脇に押しやり、紳士に「あなたは私にダムとおっしゃいました。ダムの意味を説明してください」と言いました。ダムは相手を罵倒する言葉なので、紳士は説明しようとはしませんでした。紳士は「別に大した意味ではない。続けて髭を剃ってくれ。ただしもう少し注意深くやってくれ」と言いました。しかし散髪屋は黙ってはいませんでした。「もしダムがいい意味なら、私はダムです。私の父もダムです。私の先祖も皆ダムです。でもダムが悪い意味なら、あなたがダムです。あなたのお父さんもダムです。あなたのご先祖も皆ダムです。ダムひとつではありません。ダム、ダム、ダム、ダダム、ダムです」(笑い)

 シュリ・ラーマクリシュナはたった一つだけ奇跡を行いました。それは言葉という奇跡です。もし皆さんが彼の言葉を読み出したら、止まらなくなるでしょう。最後にもう一つだけお話しておしまいにしましょう。ある父親が息子に「健康を害してしまうから、酒を飲むのを止めなさい」といつも諭していました。しかし若い息子は止めませんでした。ある日父親は大変怒り、厳しく叱りつけました。息子は「お父さんはいつも酒を止めろと言いますが、お父さんはお酒を飲んだことがありますか。どんな味か知らないでしょう」と言いました。「まず飲んでみてください。その上でなおかつやめろというなら、私はお酒を止めましょう」父親は息子の言うことは筋が通っていると思いました。そうして父親はお酒を飲み、その後何も言わなくなりました。息子は「お父さん、今何かおっしゃりたいことがありますか」と尋ねました。父親は「もしお前が酒を止めたいというなら、私は反対しないよ。しかし私に止めろと言わないでくれ」と言いました。(笑い)この話を皆さんにしたのは、皆さんに飲酒を勧めるためではありません。『福音』を読み出したら、止まらなくなるということを申し上げたかったのです。お酒を飲む時は制限を設けないと、自分の健康を害してしまう危険性があります。しかし『シュリ・ラーマクリシュナの福音』の勉強は、そのような危険性はありません。……

 もし皆さんが平穏、幸福、強さ、知識を得たいお思いなら、シュリ・ラーマクリシュナは皆さんを助けることができるでしょう。しかし富や力や地位を所望される場合は、シュリ・ラーマクリシュナは助けることができません。でもこれらの世俗的な楽しみが一体何をもたらすというのでしょうか。それらは価値の無いものなのです。識別力を持った思慮深い人なら、世俗的な楽しみが一時的なものにすぎないこと、それらにはすべて報いが付きものであることを知っています。真の楽しみ、永遠の楽しみは霊性の道においてのみ得ることができるのです。このようなタイプの楽しみ、幸福を得たいとお思いなら、シュリ・ラーマクリシュナの許においでください。必ずやご期待に添うことができるでしょう。人生のあらゆる困難に立ち向かうことを得たいとお思いなら、シュリ・ラーマクリシュナの許においでください。必ずやご期待に添うことができるでしょう。自分が誰であるか、どこから来たのか、死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、このようなことに関する知識を得たいとお思いになったら、シュリ・ラーマクリシュナの許においでください。答えを得ることができるでしょう。皆さんは私の言葉をお信じになる必要はありません。シュリ・ラーマクリシュナに興味を持った知識人の言葉に影響される必要もありません。御自身でお試しになってください。私は別に皆さんにシュリ・ラーマクリシュナの信者になってくださいと申し上げているわけではありません。皆さんをラーマクリシュナイズムに改宗させるために来たのではないのです。私がここに来たのは、もし皆さんが今日の話から受け入れられる点があるとお感じになったらシュリ・ラーマクリシュナについて勉強してくださいと申し上げるためなのです。もし受け入れられないとお感じになるなら、無視してくださって結構です。しかしこれだけは確信を持って申し上げます、もし皆さんがシュリ・ラーマクリシュナについてほんの一週間でも勉強なさったら、確実に以前とは違った自分におなりになるはずです。何らかの変化が生じるでしょう。これが先ほど、ラーマクリシュナの言葉は奇跡だと申し上げた所以です。その言葉は皆さんの人生を奇跡的に変えるでしょう。きっと皆さんの心に訴えるものがあるでしょう。

 長い時間御清聴くださいまして、有り難うございました。皆さんのお仕合わせ、御安寧をシュリ・ラーマクリシュナにお祈り申し上げます。オーム、シャンティヒ、シャンティヒ、シャンティヒ。ハリヒ、オーム。          


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