アメリカにおける
ラーマクリシュナ・ミッションのはたらき
インドにおけるラーマクリシュナ・ミッションの奉仕は、学校、大学、病院の経営や災害時の救援を組織することなど、必要かつ「目に見える」ものである。しかし、ミッションは海外で、例えばそのような奉仕活動が不必要なアメリカでは何をしているのだろうか。それは筆者が「目に見えない奉仕(活動)」と表現しているものである。ヴェーダーンタ協会の会員たちはアメリカにおける霊的貧困を解消しようと黙々と試みながら生活の中で宗教を実践し、それがいかなるものかを示そうと努力している。というのは、彼女によれば「世界は宗教がないというよりも、むしろ本当の宗教とは何かを知らないからである」「ヴェーダーンタは未来の宗教か?」というスワミジの問いに直接触れないけれども、プラヴラジカは「もちろんそうです!」と言っているように思える。アメリカの宗教的情熱の動向は、独善的でなく、制度的でなく、個人的でしかも人間を重視するヴェーダーンタこそ、実際に世界の未来の宗教であることを示している。私たちは、この素晴らしい記事を寄せられたカリフォルニア州サンタ・バーバラ、サラダ女子修道院のプラヴラジカ尼に感謝いたします。
アートマノ・モクシャールタム・ジャガッディターヤ・チャ( Atmano mokshartham jagaddhitayaca )――「自己の解放と人類への奉仕」――はラーマクリシュナ僧団にとって単なるスローガンではない。スローガンはすぐに月並みなものへと変化し、決まり文句になってしまう。ラーマクリシュナ・ミッションの理想にその人生を捧げてきた者たちにとって、僧団が「それは目標に到達するための方法であると同時に、目標そのものである」と表現しているこの二面性を有する主張がすべてなのだ。格言的に述べられたこの言葉は、私たちが日々の暮らしをその上でなぞることのできるステンシルのようなものである。
インドでは、ラーマクリシュナ・ミッションが果たしている奉仕活動はたやすく見てとれる。それは実に人を発奮させる経験である。活動中のラーマクリシュナ・ミッションを見た人は誰でも、細心の注意と情熱と敬意を込めてなされる仕事の掛け値なしの重さに感動せずにはいられないないだろう。小学校から厳格な大学、洪水の救援から飢えた人々への食事の支給、村の診療所から高層の病院、盲学校や職業訓練校から地震で破壊された建物と生活の立て直しに至るまで、そのリストは際限なく、感動を与える。人々は、仕事そのものだけでなく僧たちのひたむきな献身に畏敬の念に打たれる。これが人の言う「目に見える奉仕」である。しかし、また膨大な量の「目に見えない奉仕」もあるのだ。
一人瞑想し、あるいは祠堂で祈る者もまた神への奉仕をしているのである。霊的覚醒のために心を込めて奉仕することにより、これらの僧たちは奉仕の果実をならせる果樹に直接水をやっているのである。神の悟りという理想が所与のものとして先になければ、奉仕の理想もエゴチズムと自我肥大というパターンにいともたやすく陥ち込んでしまう。神の悟りという理想を最前面に保ち続けることによって、ラーマクリシュナ・ミッションの大樹は霊性の土壌の中に太い根を張ることができるし、奉仕によって利益を与えてくれた、張り出した枝の下にいる者たちに日除けを提供しもするのである。
決して会うことはないであろう飢えた魂のために鼓舞激励の言葉を記す僧侶の静かな努力は、また偉大な奉仕である。さらに、台風やウィルスと闘うかわりに、机にかじりついて、書き込み用紙と事務処理に際限なく悪戦苦闘している僧も同じだ。コンピューターの画面に戸惑いの表情をしている僧も同じだ。彼らの奉仕が目に見えにくいということが、あまり重要ではないということにはならない。一人一人の僧の捧げ物は独自のやり方で、目立たずに英雄的である。シンフォニーのように、全体の不可欠な一部としてラーマクリシュナ・ミッションは、労働と礼拝の大いなるハーモニーの中にある一人一人の僧の生き方から異なったメロディーを引き出している。
アメリカにおけるラーマクリシュナ僧団のはたらきは、大部分が「目に見えない奉仕」の分野のものである。それだからと言って私たちの仕事は何ほどか価値が下がるのだろうか。全くそんなことはない。それは深みと意義は別としてあらゆる分野の過剰という重荷にあえぐ一つの国家にとって必要なはたらきなのだ。
インドの場合と同じように、ヴェーダーンタ協会――ラーマクリシュナ僧団の西洋にある支部――の使命は「人類への奉仕」である。繰り返すが、インドに関しては私たちは最も切実に思われる要求に焦点を合わせている。このことは、北アメリカでの私たちの奉仕の焦点が、魂の飢え、意味のある存在への渇きといった霊的貧困を解消することにあることを意味している。
アメリカというのは、相互に相いれない様々な要素や課題がごた混ぜになった、矛盾した国である。しかし、この激しく変化する流れの中にも若干の恒常的なものはあり、その一つが宗教との永続的な係り合いである。
アメリカはこれまでずっと、そしてある程度は今もなお物質主義的な国であることは否定できない。私たちは消費物資の洪水によって窒息させられ、私たちもその必要性を幾分かは認めざるをえないメディアの侵入の絶えざる攻撃にさらされているという意味で。しかし、覚えておかなければならない重要なことは、物質主義――物を所有するために物を所有すること――はそれ自体よいこととだとは見なされていないということである。私たちは物質的なものの波にもまれているという明白な事実によって深刻な不満足のレベルに行き着いているのだ。
何かより偉大で高尚なものを求めて、この世紀末において北アメリカの人々は今、霊的復興の時期に直面しており、その証拠は社会のあらゆる面で見ることができる。カナダ放送協会による調査は「事実上調査を受けた人の半数が、過去数年間で彼らの生活はより霊的になり、大部分――八二パーセントの人が自分たちのことを霊的であると考えていると報告されている」と明らかにしている。
今年だけでも合衆国の五つの医科大学で、将来の医者たちのために宗教を必修科目にした。他の医科大学もこれに倣うように求められている。新刊書では霊性に訴えるようなタイトルが明らかに増加している。霊性は常に増え続ける宗教的な自助の書物のみならず、ビジネスや組織的な戦術、個人間のかかわり合い、家族や親の問題、室内装飾、減量、同性愛に関する書物にも求められている。
少し前までは、神と宗教は上品な会話では絶対にしてはいけない最後のものと考えられていた。その他の話題は攻撃の好目標となったのに、深く守られた信仰に関する議論は、単に味気ないもの――当惑だったのである。今や一般的な会話だけでなく、出版物、ラジオやテレビのトークショーやインターネットの談話室でも同様に信仰ほど議論するのに人気があるものはない。皮肉なことに霊性はジーンズやコロン、ハンバーガーなどの製品を売らんがための魔法の杖として、広告主に利用されている。「超越」ほどに売れるものはないように思われる。なぜだろう。うまくやった広告主は、人々の潜在的な要求に訴えかけ、この点で、最も深く根ざした欲望は生きるための霊的基盤なのだ。「冷水機からインターネットに至るまで、霊性は流行の最先端である」とマニトバ大学の宗教学の教授ジョン・スタックハウスは述べている。バージニアの宗教シンクタンクのトリニティー・フォーラムのオズ・ギネスは、「信徒席の人々は不満を持っている。人々はある種の霊性を求め、また意味を求めている。��この過去五年間、お金や力に関してはあらゆるものを持っているのに、人生は空しく、別の何かを欲しいと思っている数えきれないほどの人に私は出会った」と付け加えている。
アメリカはピューリタンがニューイングランドの岸辺について以来、宗教に夢中である。彼らは「新しきエルサレム――丘の上の街」となることを望んだものを建設した――神(少なくともピューリタンの考える神)と彼らの考える神を恐れる生活に捧げられた国家。私たちは、まだ宗教に夢中である。しかし、制度化された宗教の古い形態は、今はほとんどすたれてしまい、空っぽのキャンディーの包み紙のように捨てられてしまった。
集計によると、およそアメリカ人の九三%が神あるいは普遍的な聖霊を信じている。全く宗教を信じないという人はたったの九%である。地球上でアメリカほど教会の多い国はない。アメリカ人九〇〇人につき教会が一つの割合である。しかし、今日、自分たちの宗教を持ちつつ、両親の行っていた教会に行く人は、はるかに少ない。現在、定期的に教会の礼拝に参加しているのはアメリカ人の人口のたった四五%にすぎない。その人たちの大部分も、組織されたキリスト教とアメリカ社会の過去の砦であった、中心的な位置を占めているプロテスタントの教団には、もはや行かない。
最も大きく成長しているキリスト教の宗派は、イエス・キリストとの個人的なつながりを強調する福音主義である。福音主義の宗教は、組織がゆるやかで、非教階的で、非組織的である。多くの人によれば、私たちは、「ポスト宗派」の時代にいるのだそうだ。今日のアメリカ人は、自分自身の宗教をつくりだし、自らのハートの中に内なる教会、シナゴーグ、寺院を建てている。USニュース・アンド・ワールド・リポートによると、「最近の一連の研究は、人々は特定の宗派に入ることは少なく、宗教的見解においてより折衷的であり、他者の信仰にはより寛大であり、自分自身の霊性の旅と個人的な必要を満たすことにより心を集中している」。
実際的なレベルでこのことが意味するものは、主流の教会が表向きは過去の遺物になりつつある一方で、個人的で直接的な神の経験としての霊性に対する興味は、指数関数的に増えている、ということである。組織宗教に欠けているものは、どこからであれ、自分たちの力で見つけ出す。カナダ・ヴィクトリア州のローマン・カトリックのレミ・ド・ルー司教は、「教会の物理的な会員が私たちの周りで急減しているけれども、人々があまり宗教的でなくなったということをそれは意味するものではない。「価値」、「魂」、「霊」のような言葉が、どうしてふつうの会話の中にに戻ってきたのか、不思議だ。人々は昔のように霊的な傾向があるのだ」と論評している。
変化を促したものは何か?
あらゆる組織――政治家であれ、軍隊、報道機関、医療施設であれ、あるいは、組織化された宗教であろうと――へのつのる不信感が北アメリカの社会に浸透し、ほとんどの組織が厳しい監視を受けている。私たちが英雄とした人々は土の足を持っていることが判明した。東西の宗教のグルやカルトはともにうまくいっていない。スキャンダルが「啓けた」教師や牧師を次々と襲った――哀れなほどだまされやすく、それだけに霊的な真実に飢えている国民にとって、その傷はとても大きかった。
重要なことは、伝統的な主流を占める教会の基礎が問題にされたことである。一世代前、人は均質な地域社会に住み、ほかの文化や宗教を持つ人々と出会うことは決してなかった。今日、そんなことはほとんど不可能だ。この広大な国のどこに住もうと、ユダヤ人、イスーラム教徒、仏教徒あるいはヒンドゥ教徒が白人のアングロサクソンのクリスチャンの隣りに住んでいるというのはありそうなことだ。
コンピューターの端末のあなたの隣に坐っているのがタイ出身の仏教徒かもしれないし、あなたの隣人はバンガロール出身のヒンドゥ教徒かもしれない。また、あなたの娘がボスニア出身のイスラーム教徒と結婚しているかもしれない。「アメリカ人」という概念そのものが、前の世代で劇的に変化したので、かつては白人のクリスチャンがほとんど全体を占めていた社会はカルチャーショックの中にいる。あなたがたまたま何も知らないとき、たやすく非キリスト教徒は邪悪だと決めつけられた。彼らがあなたの姻戚、友人、隣人、同僚となるとき、それは非常に困難なことなのだ。
もうひとつの変化は、今日多くの人々が神を空の玉座に坐す人としてではなく、普遍的な聖霊とか大いなる力と見なすのを好むことである。成文化されたお祈りが朗読される教会に行くことで、自分たちの霊的生活が実際的に豊かになることを見出せないので、彼らは組織化された教会を拒否し、森や山や砂漠で聖霊との霊的な交わりを求めている。
伝統的なキリスト教の長老的な性格と、多くのキリスト教会の長老的教権主義もまた、ますます論争の的となってきた。今日、多くの女性は男性神だけであることを受け入れるのに困難を感じている。古代ユダヤ・キリスト教の支配者・王としての神の概念――正義を配分し、その怒りを人は恐れる――は、ポスト・モダーン世界とはもはやイメージとしては適合しない。あらゆるものが移ろいやすく危険で、不確実な時には、母としての神の愛と護りには意義がありまた慰めを与えるものである。さらに、働く場で(大部分は首尾よく)男性支配と戦ってきたあとでは、自分たちの礼拝の場での男性支配には女性たちは我慢できないだろう。彼女たちが、自分たちの問題や関心事が取り上げられないと感じたら、出て行ってしまうだけのことだ。そして、多くの女性がその通りにした。
そのうえ、多くの教会は、現代の心理学上の問題の中心に横たわっている哲学的な問題と折り合いをつけることができていない。神がいるならば、彼はなぜ罪なき者たちが苦しむのを許すのだろうか。何世紀もの間このジレンマはヨブ記によって説明されてきた。つまり、人格神の意志を謙虚に受け入れることによって。人知は浅薄すぎて、神の不可知の働きを推し量ることはできない、という確信によって。そのような哲学的な論題がのろのろと論議されているうちに、やがてホロコーストの壁にぶち当たった。そして、悪魔の極悪非道はこれら名案と思われたものをわらくずのように風の中に投げ捨て、次なる議論を用意した。神は六〇〇万人のユダヤ人をヨブに託してテストをしていたのだと本気で信じる人がいるだろうか。もし神がそのような邪悪を許すなら、彼は全く存在しないか、邪悪を阻むのに無力であるというのは明らかである。神が無力なら彼にかかずらう価値はない。これらふたつを哲学的な二者択一として持ちつつ、絶望感と無意味感がポスト・モダーン世界の不定愁訴となってきたことは少しも不思議ではない。
どの教会もこの二つの魔物を完全に退治することはできなかった。これは、ユダヤ・キリスト教の世界観が、極めて個人的な神を信仰していることによって拘束されているので、残念ながら避けられないことである。この上なく慈悲深く、この上なく善なる神につきまとう問題は、悪の存在についての何らかの説明を余儀なくさせるということである。「あなた方は、個人の神という考えが個人の悪魔を伴わねばならないということにいつも気がつくだろう」とスワミ・ヴィヴェーカーナンダは述べている。さらに悪いことに、説明のつかない悲哀にいつもつきまとわれるこの哀れむべき短い人の一生が、存在の最も大切で究極の目的だということである。
最後に、ユダヤ・キリスト教の世界観によって課された限界が、科学上の発見と確立された宗教上の教義とが一致することを困難にしていることである。過ぐる世紀の間は、この二つの敵対者間の緊張は、人々が科学の真理と客観的な理論を受け入れるか、そうでなければ、有無を言わず教会のドグマを受け入れるかのいずれかを選択しなければならない、と彼らに思わせてきた。前者を選ぶと、究極原理を奪われる世界に人類を置き去りにし、後者を選ぶと原理主義の避難所をつくり出す――これはすべての文化において、世俗主義に対する解決策として急速に成長している一つの選択である。
大敵と思われるものを向こうに回して超越を探し求めるということは人間の精神の弾力性をよく示している。一方、精神性は西洋において私たちに残された唯一の実在である。
私たちは富を有し、それは私たちに物品をもたらす。私たちは物を持ち、それらがセキュリティの外見を与えてくれた。しかし、セキュリティは残忍ないたずらでしかなく、お金で買うことができ、この世界が提供できるすべてのものを以てしても、むなしい人生の苦しみを癒すのに十分とはいえない。心にしばしば浮かぶ真実は、どんなものを私たちが所有し、稼いだとしても、決して十分ではなかったということである。
一九六〇年代の「花の子供たち」は一九七〇年代の「ミーイズム世代」になった。八〇年代まで彼らは彼らの投資を保護し、九〇年代までは白髪になった以前のヒッピーたちは、鏡に映る自らの死すべき運命を凝視しながら、引退生活のために貯蓄をしていた。充足を探し求める過程のどこかで六〇年代の世代は今日の若者を産み出したが、これはしばしば「ジェネレーションX」と称される八千万の大群である。
ジェネレーションXは、その大部分が組織宗教と崩壊していない家庭という安全装置なしに育てられた最初の世代である。一九六五年と一九七五 年の間にアメリカの離婚率は二倍になった。片親と暮らす六〇年代生まれの子供は、それ以前に生まれた世代のおよそ三倍であった。
役割モデルとして、ビデオとMTV(ロック専門の有線テレビ)で成長したジェネレーションXはショッピング・モールに慰めを、テレビに情緒的な共鳴を見いだした。彼らは前の世代よりもっと多くのものを手に入れたが、家庭と地域社会とを結び付ける情緒的な接着剤は与えられなかった。
それは荒涼たる図に違いなく、多方面でそうであった。何も信じられず、何もあてにできない世界に育った若い世代は、最も荒れ果てた姿の人生と出会う羽目になった。しかし、まさにこの荒廃が、今日の霊性復興の土壌を用意したのである。「意味と自己同一性の危機が宗教の復興を誘発した」と、プリンストン大学の神学者、ギブソン・ウインターが先ごろ述べている。与えられたものすべてが浅薄であるかつまらないことを知ったジェネレーションXは、ますます霊性へと向かっている。「皮肉で焦がされた」彼らの生活を救うことができるのは、神のみであることが分かったのである。ジェネレーションXの著者で気乗り薄の代弁者ダグラス・クーブランドは次のように書いている。
さて、これが私の秘密である。
私は、もう一度やり遂げられるかどうかを疑問に思っていることを皆さんに率直に申し上げる。だから、次の言葉が聞こえるように、皆さんが静かな部屋にいることを祈っている。私の秘密とは、私には神が必要だということである。私は気分が悪く、一人ではもううまくやれないのだ。私が与えるのを助けてくれる神が必要だ。私には与えることができないように思えるからだ。私が親切でいられるように助けてくれる神が必要だ。もはや親切でいることができないように思えるからだ。愛するのを助けてくれる神が必要だ。私には愛することができないように思えるからだ。
以上の言葉がたった一人の誰の代表でもない人間の言葉にすぎないのではないかと疑われないように、今日のアメリカの若者たちの「六つの基本的な要求」を調査したギャラップ調査の結果を見てみよう。この調査は、クープランドがすでに述べたことをそのまま映し出している。
この調査によれば必要なものは、以下の通りである。
一、人生には意味と目的があると信じる必要性
二、共同体意識と、人とのより深いつながりの意識の必要性
三、評価され、愛される必要性
四、傾聴され、実際に聞いてもらえる必要性
五、信仰において成長していると感じる必要性
六、成熟した信仰を育てるための役に立つ助けの必要性
若者がそうであるなら、国民もそうである。最初の必要性――人生には意味と目的があると信じる必要性――が満たされれば、あとの必要性は当然に自ずからついていくだろう。幸いにも、長い間、自分自身にこだわってきた六〇年代の世代と、「早く進め」にこだわってきたXジェネレーションの子供たちとは、ついに、ともに、おのおののロープの先が彼らがかつて抱いた唯一の望みである聖霊を中心にした生活に到達したのである。
最初の必要性が満たされる場所こそ、北アメリカ・ヴェーダーンタ協会の「目に見えない奉仕」が北アメリカの現実に接している場所である。私たちの役割は、一貫して、霊的貧困を解消することにあった。その役割の上で、今日、私たちのはたらきは今まで以上に重要である。どのようにして霊的貧困は軽減されるのだろうか。人生には目的と意味があり、それは大いなる贈り物であるという、絶対、完全な保証を与えることによってである。人生は決して矮小化されたり、無駄に消費されるべきではない何かである。
私たちの人生には、意味がある。なぜなら私たちの本性は神聖であり、やがて私たちの神聖をあますところなく実現することになるだろうから。私たちは互いに深く結びついているので、私たちの人生には意味がある。すなわち、私たちの行為と思いは、――最初こそ他者に向けられているものの――自分自身に向けられ、こうして無私と同情のためのあらゆる努力は、私たち自身の霊的進歩として実を結ぶだろう。私たちの行為は有形の果実を実らせるので、私たちの人生には意味がある。私たちは、決して理解できない偉大なチェスの試合のポーンではない。昨日の行いと思いが私たちの今日をつくったように、私たちの今日の行いと思いが私たちの明日を導くのだ。自分自身よりほかには何も責められたり褒められたりするものはない。この究極の責任は、自分自身を変える強さをもたらす。というのは、そのときにのみ私たちは私たちをとりまく世界で積極的に変わることができるからだ。
一世紀以上もの間、魂は神聖であるという真実、存在の一者性、無私の価値、そして貧困と無知、残酷さに対する同情は、徐々にこの広大な大地の共同意識となった。一世紀の間、このメッセージはさまざまな方法で語られ、書かれ、論じられてきた。そして強い酸のように、国民のハートと精神に自らを刻み込んできたのである。
ここの仕事は決して魅力に満ちたものではない。時にはまったく目に映らないように思われたこともある。霊的真実を求めてやってきた一人の人間と話しをして費やされた時間を誰も見ることはできない。もしかしたら聴衆が五〇人だったかもしれない講義のために取り組んだ時間を、誰も見ることはできない。時には、ごみ、雑草、嫌な石ころのある不毛の土地を絶望的に耕しているように見えたに違いない。しかし、事実はそうではなかった。忍耐、果てしない忍耐が必要だった。しかし、ラーマクリシュナ僧団の存在は一時的な不作には決して負けない先祖代々の農夫が模範となることを証明した。今は以前にも増して北アメリカのヴェーダーンタ協会に霊的食物を求める人の数が増加している。
北アメリカの霊性の復興がラーマクリシュナ・ミッションの百周年と重なることはうれしい偶然の一致である。そして、私たちは紀元三千年紀に入ろうとしている今、私たちは私たちが始めた仕事の継続という使命に直面している。再びダグラス・クープランドの言葉を引くと、「私は、私たちが生きている 被造物であることを改めて心に刻む。私たちは宗教的な衝動を持っている――持たなければならない――そこで、しかし、宗教のない世界では一体どんな亀裂にこれらの衝動は流れ込むのだろうか」
北アメリカのヴェーダーンタ協会における私たちの挑戦は、これらの亀裂を埋めることにある。この世界は宗教がないというよりはむしろ何が本当の宗教であるかを知らない世界である。スワミ・ヴィヴェーカーナンダが「宗教は言葉や名称や宗派を意味するのではなく、霊的悟りを意味するものだということをあなたの生き様によって示せ」と言ったように、私たちは道しるべ、目撃者、生きた証拠となるべきなのである。
それのみが人生に意義を与える。私たちすべてが手に入れることのできる、悟りという約束は、霊的貧困を取り除くという私たちのはたらきの燃料となるだろう。